私の子どもの頃は、何処に行っても子どもたちがたくさんいて、遊び相手には不自由なく、暗くなるまで外で夢中になって遊んだものです。子どもたちの間では仲間意識が芽生え、大きい子が小さな子の面倒をみていました。大きな子の真似をし、いろんなことを学んでいました。去っていく子、入ってくる子の入れ替えの中で遊びと社会性が引き継がれていきました。家を一歩出ると、そこはもう自然の宝庫でした。童謡に「春の小川はサラサラいくよ~」という歌がありますが、まさしくそのような小川が点在し、メダカがスイスイと泳ぎ、たんぽぽや白つめ草が咲きみだれ、空にはひばりが甲高く鳴き、空気が清み夕焼けはとてもきれいだったのが印象に強く残っています。自然には四季折々の顔があり、その中で多くのことを感じ・学びながら育ったものです。物はなく貧しい時代でしたが、子どもたちは輝きよき時代だったと思います。子どもをとりまく環境が、大きく変化する中で、"自然の中で育つ""子どもの中で育つ"保育を志し昭和57年に保育士資格を取得、同61年に保育所を設立し(当初は認可外)早30年が過ぎました。日々、社会が変化し保育所に求められるものも変わっていきますが、子ども達が健やかに育ってほしいと願う心に変わりはありません。変わっていくもの、変えてはいけないものを、しっかりと見極めこれからも、保育にあたっていきたいと思います。
名誉園長・指導保育士 山﨑秋雄
自宅の一部屋を使って始めた、たんぽぽ保育園は私の幼少時代と共にありました。自宅に帰るとリビングには園児たちがいて、私はいつも台所で遊んでいたのを覚えています。園が大きくなってくると建物を増築し、家の中に子どもたちがいることはなくなりましたが、時にはお迎えの遅い園児たちと一緒に食卓を囲むこともありました。私にとっては園児は家族とあまり変わらなかったのかもしれません。中高生になると年上として関わりたいという思いに駆られ、時折保育室で子どもたちと触れ合うこともありました。保育園と自宅がくっついていると不便な面もありましたが、生まれたときからそれが当たり前の状況だったので嫌だと思ったことはありません。ずっと父と保育士の背中を見て育ってきた私がこの仕事を継ぐことになったのは自然なことなのかもしれません。
私が子どもの頃は同じ地区の小学生1~6年生が公会堂に集まって毎日のように遊んだものです。まさに父の言う「大きな子が小さな子の面倒を見る」ことが行われ、子どもだけの社会が形成されていました。ところが新型ゲーム機の流行が一つのきっかけで外遊びが減り、異年齢の社会は徐々に崩壊していきました。今では年齢の近い子たちが少人数で遊ぶ姿は見られても昔のように異年齢で10~20人単位の集団を形成して遊ぶ子どもたちの姿を見ることはなくなってしまいました。私も時を経て二児の父となり、父が目指してきた"自然の中で育つ""子どもの中で育つ"保育の素晴らしさがいっそう良く分かるようになりました。私は保育園を利用する保護者の方と同じ年代にあたり、現に子育て中の身ですので、等身大の子育て支援を意識していきたいと思います。開設から30年以上が経過して事業規模も創業時とは比べものにならないほど大きくなりました。様々な社会情勢が変化して難しい時代になったと感じることが多くなってきましたが、日本の未来を担う子どもたちの健やかなる成長のために誠心誠意を尽くし職責を果たしていきたいと思います。
理事長・たんぽぽ保育園園長 山﨑正太郎